名物おばあちゃんが大往生しました
今年4月に「新鮮な野菜とおいしい空気が信州を死亡率最少にしている?」の項でご紹介した、94歳の現役農業おばあちゃんが、今秋、静かに息を引き取りました。
亡くなる数日前まで家の前の畑に出て、草むしりをしていました。
たまに私たちが様子を見にお邪魔すると、身長の3分の2ぐらいはある巨大な青首大根や、地元特産の野沢菜なんかを、
「これ、持って行きましょ(持って行きなさい)」
と言って、抱えきれないほどいっぱいくださりました。
ある日、畑に姿を見かけないのを心配した集落の人が家を覗くと、朦朧として布団に横たわっていたそうです。
救急車が呼ばれて里の総合病院に運ばれました。
おばあちゃんは大家族ですから、里に下りた息子や娘、孫たちがつぎつぎに駆けつけます。その頃には意識が戻って、ニコニコと相づちを打っていたそうです。
そのまま、消え入るようにスーッと息を引き取ったということです。
残念ながら私たちはお別れすることができませんでしたが、見事な大往生と聞いて、何と幸せな最期だろうと思いました。
一緒に暮らそうという子供たちの誘いを断り、先祖伝来の家と畑とお墓を守って、亡くなる直前まで働き続けました。文字どおりの“生涯現役”でした。
安曇野の大地と一緒に呼吸するようにして生き、生涯を終えたおばあちゃん。これでまた、山里が寂しくなります。


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亡くなる数日前まで家の前の畑に出て、草むしりをしていました。
たまに私たちが様子を見にお邪魔すると、身長の3分の2ぐらいはある巨大な青首大根や、地元特産の野沢菜なんかを、
「これ、持って行きましょ(持って行きなさい)」
と言って、抱えきれないほどいっぱいくださりました。
ある日、畑に姿を見かけないのを心配した集落の人が家を覗くと、朦朧として布団に横たわっていたそうです。
救急車が呼ばれて里の総合病院に運ばれました。
おばあちゃんは大家族ですから、里に下りた息子や娘、孫たちがつぎつぎに駆けつけます。その頃には意識が戻って、ニコニコと相づちを打っていたそうです。
そのまま、消え入るようにスーッと息を引き取ったということです。
残念ながら私たちはお別れすることができませんでしたが、見事な大往生と聞いて、何と幸せな最期だろうと思いました。
一緒に暮らそうという子供たちの誘いを断り、先祖伝来の家と畑とお墓を守って、亡くなる直前まで働き続けました。文字どおりの“生涯現役”でした。
安曇野の大地と一緒に呼吸するようにして生き、生涯を終えたおばあちゃん。これでまた、山里が寂しくなります。




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トラクターの燃料も凍ってしまいました
ここ数日間で、12月中旬にしては珍しい大雪が降り積もりました。
連日、除雪車がうなり声を上げながら集落のあちこちを回っています。
近隣の町道の除雪を任されているオジサンは、早朝3時半から作業をスタート。担当エリアを一周して戻ってみると、元の道に新雪がこんもりと積もっていたそうです。
泣く泣くもう一周して戻ると、今度は先ほどより雪の嵩が増えています。やむなくさらに一周しても、路面はすでに雪だらけ。
結局、その日は日没近くまでひたすら除雪車で雪掻きを続けたのだそうです。
数日前には最低気温がマイナス10度を下回り、ご近所の農家ではトラクターの燃料まで凍ってしまいました。
我が古民家は…あえて口に出しますまい。トホホの冷凍庫状態が続いております。

七色大カエデも、ご覧のとおり

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連日、除雪車がうなり声を上げながら集落のあちこちを回っています。
近隣の町道の除雪を任されているオジサンは、早朝3時半から作業をスタート。担当エリアを一周して戻ってみると、元の道に新雪がこんもりと積もっていたそうです。
泣く泣くもう一周して戻ると、今度は先ほどより雪の嵩が増えています。やむなくさらに一周しても、路面はすでに雪だらけ。
結局、その日は日没近くまでひたすら除雪車で雪掻きを続けたのだそうです。
数日前には最低気温がマイナス10度を下回り、ご近所の農家ではトラクターの燃料まで凍ってしまいました。
我が古民家は…あえて口に出しますまい。トホホの冷凍庫状態が続いております。

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愛知の古民家から貴重な古新聞が見つかったそうです
中日新聞の電子版(2012年12月2日付)に「107年前の『新愛知新聞』発見 日進の古民家」という記事が載っていました。
江戸時代の1769年に建造されたとされる愛知県日進市の木造平屋建て「市川家住宅」で、明治から昭和初期にかけての古新聞が多数、見つかったのだそうです。
家の所有者が無人になった家の保存と活用を市に委ね、ボランティアが掃除をしていて発見しました。
計73枚が、着物を入れる箪笥の敷物などに使われていました。日付はバラバラ。ほとんどが中日新聞の前身の「新愛知新聞」で、もっとも古いものは1905(明治38)年4月11日付でした。
明治38年といえば日露戦争真っただ中。一面トップは「波艦隊来(きた)る」と題した評論で、バルチック艦隊の勢力分析や航海目的に関する考察が書いてあったそうです。
当時の「新愛知新聞」はほとんど散逸してしまい、中日新聞社にもあまり残っていないようです。大変、貴重な発見なのでした。

1924(大正13)年の「新愛知新聞」。「名古屋十名所」を選定しています。
そういえば、我が家でも引っ越し当時、屋根裏や朽ち果てかけた長持ちの底から日付の古い昔の新聞がわらわらと出てきました。


我が家でも、屋根裏の土壁に古新聞が貼ってありました。
大部分が信濃毎日新聞だったように記憶しています。たしかいちばん古いものは昭和30年代の紙面でした。完成したばかりの東京タワーの見聞録が載っていました。
どれも穴だらけでボロボロ。さっさと捨ててしまいましたが、その際、ちょっと拾い読みしただけでもタイムカプセルを開いたようなワクワク感があったのを覚えています。
古民家と古新聞…日本中の古民家を総ざらいしたら、きっとまだまだ出てくるんでしょうね。

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家の所有者が無人になった家の保存と活用を市に委ね、ボランティアが掃除をしていて発見しました。
計73枚が、着物を入れる箪笥の敷物などに使われていました。日付はバラバラ。ほとんどが中日新聞の前身の「新愛知新聞」で、もっとも古いものは1905(明治38)年4月11日付でした。
明治38年といえば日露戦争真っただ中。一面トップは「波艦隊来(きた)る」と題した評論で、バルチック艦隊の勢力分析や航海目的に関する考察が書いてあったそうです。
当時の「新愛知新聞」はほとんど散逸してしまい、中日新聞社にもあまり残っていないようです。大変、貴重な発見なのでした。

1924(大正13)年の「新愛知新聞」。「名古屋十名所」を選定しています。
そういえば、我が家でも引っ越し当時、屋根裏や朽ち果てかけた長持ちの底から日付の古い昔の新聞がわらわらと出てきました。


我が家でも、屋根裏の土壁に古新聞が貼ってありました。
大部分が信濃毎日新聞だったように記憶しています。たしかいちばん古いものは昭和30年代の紙面でした。完成したばかりの東京タワーの見聞録が載っていました。
どれも穴だらけでボロボロ。さっさと捨ててしまいましたが、その際、ちょっと拾い読みしただけでもタイムカプセルを開いたようなワクワク感があったのを覚えています。
古民家と古新聞…日本中の古民家を総ざらいしたら、きっとまだまだ出てくるんでしょうね。



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おサル対策で柿の実を採っていたら、干し柿が増え続けて…

我が家の周囲には柿の大木が何本もあります。
以前はきちんと剪定されていたようですが、農家の担い手がいなくなって、ここ十年以上、まるっきりほったらかしの状態です。
上背ばかりが伸びてしまい、下枝がなくなって手の届く範囲には実がなりません。そんな役立たず?の柿の木が、何千という数の実をつけています。

柿の実目当てにおサルが集まってくるので、採れる実はどんどん採ってくれないかとご近所のみなさんに言われ、微力ながら私たちも高枝切りバサミでせっせと収穫しています。

採った実は干し柿にして縁側にぶら下げています。今年も食べきれないほどの干し柿ができちゃいそうです。



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